小平晴史 = 文/山下剛 = 写真/取材協力 =本田技研工業株式会社
戦後間もない日本人にとって、マン島TTへの参戦は、果てない夢への挑戦だった。ところが、初めての世界戦マシンであるRC142を携え、1959年にマン島に渡ったホンダチームは、大方の予想を裏切り125ccクラスで6位という快挙を成し遂げる。そこから始まる世界グランプリへの挑戦は、世界の壁に挑戦することでジャパニーズクオリティを確立し、日本経済が復興するきっかけとなった。ちなみに、「時計のように精巧な…」という、日本製品についてまわる形容句は、RC142に対して外国メディアから贈られた賛辞だった。
初参戦にして輝かしい成績を収めたRC142は、現物はもちろん図面も廃棄されてしまっていたが、本田技研工業は、自社の世界GP参戦50周年の今年、記念すべきマシンを現代の技術で蘇らせた。まずは、わずかに残された当時の写真や、類似した市販車からデータを割り出しながら図面を製作し、さらにそこから現物を起こしていく。当時の工程をなぞるように進められた作業は、非常に手間が掛かるものだった。そして、先日行われたメディア向け公開テスト走行では、1959年に6位入賞した谷口尚己さんその人がライディング。当時以上のクォリティで蘇った愛車の感触に、目を潤ませていた。なにもかもが性急に過ぎ去っていくこの時代、営利目的以外でイチからマシンを起こす手間は、なかなか掛けられるものではない。日本を代表する二輪メーカーとしてのホンダの懐の深さ、そして文化を紡いでいく努力に敬意を表したい。
完成したRC142は、4月4日から4月16日の間、ツインリンクもてぎのコレクションホールで一般公開された後、4月26日のmotoGP日本グランプリ決勝日には、谷口尚己さんのライディングでデモランが行われる。かつて貧しかった日本が、国全体で夢を共有できた時代は過ぎた。しかし、今でも一人一人が大きな夢を持つことは出来る。日本を盛り上げるさきがけとなったRC142の復活は、夢に熱くなる大切さを忘れた日本人に、何かを問いかけているような気がする。
【1】復元にあたったのは、本田技術研究所二輪開発センターの面々。図面を起こすところからはじめ、当時と同じ手作業による製作では、貴重な技術の伝承も行われたという。
【2】RC142の6位入賞、さらに初参戦にしてメーカーチーム賞の獲得という快挙は、すぐさま全世界に知れわたり、ジャパンクォリティを知らしめるきっかけとなった。